大阪高等裁判所 平成8年(う)666号 判決 1997年10月24日
主文
原判決を破棄する。
本件を大阪地方裁判所に差し戻す。
理由
本件控訴の趣意は、弁護人小林芳郎、同伊藤廣保、同平野惠稔連名作成の控訴趣意書、控訴趣意訂正・補充書、控訴趣意補充書(二)及び同(三)に、これに対する答弁は、検察官青木捷一郎作成の答弁書にそれぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。
第一 控訴趣意のうち、訴訟手続の法令違反の主張について
所論は、要するに、原審が、検察官請求のAの検察官に対する平成六年一一月二四日付け供述調書(以下、検察官に対する供述調書を「検面調書」という。)を刑訴法三二一条一項二号に定める要件がないのに採用し、また、弁護人がB及びCの各証言をそれぞれ弾劾するために刑訴法三二八条に基づいて請求した両名の証券取引特別調査官に対する各質問調書(以下、証券取引特別調査官に対する質問調書を「質問調書」という。)を、その要件があるのに採用しなかった点で、原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな訴訟手続の法令違反がある、というのである。
そこで、記録を調査し、当審における事実取調べの結果をも併せて検討するに、記録によると、原審は、平成八年三月一日に期日外で、検察官請求のAの平成六年一一月二四日付け検面調書を刑訴法三二一条一項二号書面として採用し、また、第六回公判(平成八年一月一九日)において、弁護人がB及びCの各証言を弾劾するために刑訴法三二八条に基づいて請求した両名の各質問調書を却下したことが認められるが、記録を検討してみても、原判決には所論が指摘するような訴訟手続の法令違反の誤りはない。以下、所論にかんがみ説明を付加する。
一 Aの検面調書について
所論は、Aの平成六年一一月二四日付け検面調書には、同人の原審証言との間に刑訴法三二一条一項二号にいう相反性もなければ、特信性もない、検察官は、A証人の尋問に際し、調書の署名押印について尋問するだけで、特信状況については全く尋問せず、何らの立証をしていない、と主張する。
原判決がAの右検面調書を採用するに当たり、相反性、特信性についていかなる判断をしたのかは、採用決定にその理由がないためうかがい知ることはできない。しかし、Aの原審証言と右検面調書との内容を対比すると、明確に相反するとまではいえないものの、趣旨、ニュアンスからして実質的に異なる供述をしている部分があることは十分認められる(所論は、相反性がない根拠として、Aの調書の記載は空疎で、検察官の誘導尋問の内容をあたかもAが供述したかのように記載したにすぎないなどと指摘するが、相反性の判断に際し右のような指摘が根拠たり得ないことはいうまでもない。)。また、Aと被告人との関係を考えると、たとえその関係が証言時には既に解消されていたとしても、被告人の面前で不利益な証言をすることがはばかられることは経験則上明らかであり、同人の証言内容、態度等をも併せかんがみると、検面調書の方に特信性があることも十分認められるというべきである。なお、検察官が特信情況についてAの証人尋問において何らの立証をしていないと論難する点は、特信情況は証人尋問においてしか立証し得ないとの独自の見解を前提とするものというべきである。したがって、所論は採用することができない。
二 B及びCの各質問調書について
所論は、Bの平成六年九月六日付けの質問調書二通及びCの各質問調書は、それぞれ、両名の原審各証言といずれも重要な点で食い違っており、刑訴法三二八条の弾劾証拠に該当することは明らかである、と主張する。
しかし、Bの原審証言と各質問調書、Cの原審証言と各質問調書とをそれぞれ対比してみるに、所論がるる指摘する食い違いの部分は、要するに、各質問調書では、証言に見合う供述記載がないというものがほとんどであり、特別調査官からそのような事実について質問があったか否かもはっきりせず、これをもって自己矛盾の供述であると解することは無理であるといわざるを得ない。したがって、両名の各質問調書が刑訴法三二八条の弾劾証拠に該当するとの所論は採用することができない。
論旨は理由がない。
第二 控訴趣意のうち、事実誤認の主張について
所論は、要するに、本件の争点は、(1)Bが甲皮膚科医院(以下「甲皮膚科」という。)を訪れた際に、ユースビル錠についての死亡例を含む副作用症例が発生し、一時同剤の出荷を停止するとの原判示文書(以下「至急文書」という。)を被告人に手交したか否か、(2)被告人の日本商事株一万株の売り注文が、Bからの右文書交付によるユースビル錠にかかる副作用情報によりなされたものか否か、という点であるところ、原判決は、(1)については、唯一の証拠であるB証言が信用できるとしてこれを肯定し、(2)についても、これを前提に、被告人は、日本商事株の確実な下落を予想し、利益を得ようと右売買を行ったものであると肯定しているが、Bの訪問は、至急文書の交付による情報伝達を目的としたものではなく、また、同文書の交付はもとより、いかなる方法によるにせよ、Bから右情報の伝達はなされていない、被告人の右株売買は、右情報の伝達によるものではなく、証券会社の担当者であるDからの情報と被告人の相場感によるものである。したがって、原判決には、右争点に関し事実誤認があり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかである、というのである。
そこで、記録を調査し、当審における事実取調べの結果をも併せて検討するに、原判決挙示の各証拠によれば、原判示の事実は優に認定することができ、原判決が(補足説明)の一で認定説示するところは正当としてこれを是認することができるから、原判決には所論指摘の事実誤認は認められない。以下、所論にかんがみ、当裁判所の判断を付加して説明する。
一 前提となる事実と争点
関係証拠によると、(1)乙薬品株式会社(以下「乙薬品」という。)千葉支店は、甲皮膚科に医薬品等を納入している有限会社丙商会(実質的な経営者は被告人である。以下「丙商会」という。)に対し昭和四六年ころから医薬品を販売しており、本件当時、同支店第一営業部の千葉営業所長Cが丙商会との取引の担当者であったが、同商会が大口の得意先であったほか、被告人が千葉市皮膚科医会の会長等の要職についており、被告人から何人もの開業医を顧客として紹介してもらうなどしていたことから、Cの上司である右第一営業部次長のBが主に被告人と取引の商談等に当たっていたこと、(2)ユースビル錠は、帯状ほう疹に効果がある皮膚科用抗ウイルス剤として、日本商事株式会社(以下「日本商事」という。)が平成五年九月三日に発売を開始したものであるところ、その後、フルオロウラシル系薬剤(ガン治療薬剤)との併用投与による死亡例を含む重篤な副作用症例が発生し、これに関する副作用情報は、同年一〇月一二日午後二時に厚生省が緊急安全性情報として発表し、さらに、同日午後三時ころ、日本商事がマスコミ関係者に発表し、公に明らかとなったこと、(3)日本商事から乙薬品本社等を通じて送られきた右副作用情報は、これに先立つ同日午前一〇時四一分ころ、至急文書として乙薬品千葉支店にもファックスで送られていたこと、(4)ところで、被告人は、ユースビル錠に関し、発売前から講演会の開催等で日本商事等に対し協力しており、甲皮膚科でも、乙薬品から同錠を購入しては、患者に投与して使用していたこと、(5)被告人は、同日昼過ぎころ、甲皮膚科にBの訪問を受け、午前の診察を終えた後、院長室で二〇分間ほど話をするなどし、その後、近くのレストラン「磯膳」にて、丙紹介の管理薬剤師のEも交えて三人で約一時間にわたり会食をしたが、出かける直前、午後一時二〇分ころ、Bを待たせて、院長室から、日頃取引のある丁証券株式会社(以下「丁証券」という。)千葉支店の担当者Dに電話をかけ、信用取引で日本商事の株一万株を指し値三一三〇円で売り(いわゆる空売り)注文をしたこと(以下、これを「本件株取引」という。)、(6)なお、右注文した株は、同日午後一時五〇分ころ、売買が成立した(被告人は、翌一三日に右一万株を二六六〇円で買い戻し、その差額四七〇万円の利得を得た。)が、日本商事の株は、一二日午後二時一〇分、日本商事からのユースビル錠の副作用発生等の報告を受けた大阪証券取引所により、売買が停止されたこと、以上の事実が認められ、これらの事実についてはほぼ争いがない。
被告人の本件株取引は、新薬ユースビル錠の副作用情報が公表されることにより、発売元の日本商事の株価が相当下落することが見込まれる中、その公表直前において行われており、被告人において右情報を事前に入手していたのではないかとの疑いが持たれるところ、Bは、原審公判で、本件当日の昼の甲皮膚科訪問の際、千葉支店において入手した至急文書の写しを被告人に手渡した旨、明確に証言している。これに対し、被告人は、捜査(証券取引等監視委員会の調査を含む。)段階から一貫して、右事実を否定する供述をしている。したがって、双方の供述の信用性いかんが本件の争点であり、以下この点を中心に検討する。
二 Bの証言の信用性について
1 まず、Bの証言についてみるに、Bが至急文書を入手し、その写しを被告人に手渡すまでの経緯とその動機について述べるところは、具体的かつ詳細であること、また、本件副作用情報が記載された至急文書が、一〇月一二日午前一〇時四一分ころ、乙薬品千葉支店にファックスで送られてきたことは、前示のとおりであるところ、同支店の第一営業部次長であるBは、その立場と職責からして、この直後に右情報を知った可能性は高く、Bが右情報に接していたとするなら、その情報の内容や被告人とのそれまでの関係等からいって、Bが甲皮膚科を訪問しながらこの情報を被告人に伝達しないなどということは、たとえ至急文書が医療機関宛ての文書の体裁をとっていないにしても、およそ考えられないことであることにかんがみると、その信用性は大筋において認めることができるというべきである。
所論は、Bの一〇月一二日の甲皮膚科訪問の目的は、至急文書の写しを渡すことではなく、トリルダン錠の最終的な商談をすることであり、現に会食の際もトリルダン錠の話題しか出ていない、Bの言うような目的であれば、会食の際にも、本件副作用情報に関する話題が当然出るはずである、Bが被告人に対し本件副作用に関する情報を伝えたのは、Bが同月一五日に甲皮膚科を訪問した際が初めてである、と主張する。
確かに、関係証拠によると、一〇月一八日に丙商会から乙薬品にトリルダン五万錠の注文がなされていること、「磯膳」での会食の経費処理にかかる乙薬品の交際費・雑費申請書には、「なお、今月分としてトリルダン錠六〇g一〇〇〇T×五〇箱注文いただきました。」との記載があること、会食の際には、トリルダン錠についての話題のみで、ユースビル錠については何ら話が出なかったことなどが認められるが、他方、Bの手帳には、当日の予定としてトリルダン錠の商談の件は記載されていないこと、Bの原審証言によれば、トリルダン錠の商談は、正式かどうかはともかくとして、既に九月末ころにできていた、「磯膳」の経費処理にかかる記載文言は社内でのスムーズな処理を慮って便宜トリルダン云々としたものである、というのであり、Cもこれに見合う証言をしていることが認められ、また、会食の際にトリルダン錠の話題に終始したのは、本件副作用情報を得て本件株取引を行った直後であれば、被告人の方で意識的にユースビル錠の話題を避けたとしても不思議でなく、Bもその意図を察知して話を合わせたと解することもでき(ましてや、Eが同席していたことを考えると、その感が強くなる。)、会食の際の話題が直ちにBの訪問目的につながるとはいえないことなどに照らすと、この点に関するBの証言が信用できないと決め付けることはできないというべきである。
これに対し、被告人は、Bと本件副作用情報とのつながりに関し、所論に沿う供述をするところ、確かに、関係証拠によると、Bが一〇月一五日に甲皮膚科を訪問し、被告人に本件副作用情報に関する記事が掲載された業界新聞を手渡した事実は認められる。しかし、Bがこの日まで本件副作用情報に関する事柄を一切被告人に伝えず、しかも、右のような業界新聞でもってその情報を伝えるに止めたというのは、たとえ被告人が同月一二日夕刻にAの方から本件副作用情報を得ていたという事実があるにせよ、Bの行動としてみた場合、前示の被告人とBとの従前の関係、Bが本件副作用情報に接した時期、本件副作用情報の内容等からして、余りにも情報伝達として間延びした不自然なものというべきであり、被告人の供述は到底措信することができない。
したがって、所論は採用することができない。
2 次に、本件株取引についてみると、被告人は、Bの訪問の際、すなわち、Bから情報を入手し得た時間帯に、これから会食を共にしようというBをわざわざ待たせてまで、時間を急ぐかのようにDに電話をかけて行っている。さらに、その態様は、関係証拠によると、被告人は、昭和五〇年ころから、何度か控えていた時期はあるものの、丁証券千葉支店を通じて株取引を続けて行っていたところ、空売りは、これまで担当者から再三勧められても、リスクが大きいことなどから行ったことがなく、今回が初めてのことであること、しかも、今回は、日本商事の株価の動きを聞くなどした後とはいえ、被告人の方から先に空売りをすることを持ち出していることなど、通常の株取引とは違った特異性が認められる。これらの事実に照らすと、特段の事情でもない限り、本件株取引とBの訪問とは無関係ではなく、被告人は右訪問の際Bからなにがしかの情報を得たからこそ本件株取引を行うに至ったのではないかとの合理的な推認が働くところであり、この点も、Bの証言の信用性を補強するものといえる。
所論は、本件株取引に関し、被告人は、当日午前中の日本商事株の売却を踏まえ、Dからの情報と自らの相場感から行ったものである旨主張し、被告人もこれに沿う供述をしている。
確かに、関係証拠によると、被告人は、日本商事株の取引については、平成五年五月に、ユースビル錠の発売予定を見込んで株を買い始めて以来、何度か買っては売って利益を上げ、同年九月一七日に三四〇〇円、二〇日に三四五〇円で五〇〇〇株ずつ信用買いした分については、その後売却の好機をつかめないままでいたところ、本件当日は、朝からDと連絡を取り合い、午前九時四五分に一万株を指し値三三七〇円で売り注文し、午前一〇時ないし一〇時半ころには、Dからの報告を聞き、売れ残った六五〇〇株について三三〇〇円に指し値を変更するなどしていることが認められ、被告人にとっては、日本商事株の取引はそれまでにも経験があり、当日も、午前中に持ち株を売却しており、右売却を通じるなどして、日本商事株の下げ含みの値動きについては承知していたといえる。しかし、これらの事情は、被告人が、本件当日、日本商事の株について売り注文をしたからといって不自然ではないといえるにとどまり、前示のように被告人から進んで空売りの注文を行ったことまで合理的に説明し得るものではないというべきである(なお、被告人は、Bを待たせてDに電話したことについて、当審公判で、特に理由はないが、午前中にした売れ残り分の売り注文の結果を知りたくて、後場の始まった頃を見計らってDに電話をした、こういうことはよくあることである、と供述しているが、午前中にした売りの結果を聞くにせよ、また、その後の値動きを聞くにせよ、何もこの時間帯に被告人の方から電話する必然性はなく、Dからの連絡を待っていてもよいし、被告人から電話するにしても、会食が終ってから午後の診療前にすれば足りるといえるのであって、必ずしも合理的な説明になっていない。)。そうだとすると、本件株取引はDからの情報と自らの相場感から行ったものであるとの被告人の供述は、そのままにわかに措信するには無理があるといわざるを得ない。
また、所論は、被告人の本件株取引(その後の買い戻しも含む。)は、Bからの本件副作用情報を得て、多額の利益を得ようとして行ったとするには、余りにも矛盾する内容となっている、と主張する。
確かに、関係証拠によると、被告人は、本件株取引に際し、Dから空売りの限度枠一杯(三万株)を勧められながら、これに応じず、一万株の空売りに止めていること、翌日も、Dから、本件副作用情報の公表により株価がより一層下がることが見込まれたので、新たに売り建てをするなり、買戻しの時期を見合わせるなりするようにとの勧めがあったにもかかわらず、被告人はそれを聞かずに全部寄りつきで買い戻している(差額四七〇万円の利益を得た。)ことなどが認められる。しかし、被告人が右のように一万株の売りに止め、また、翌日これを全部買い戻したのは、被告人自身が日本商事の株価動向の見通し(リスクを含む。)の下に判断した結果であると解されるのであり、所論の指摘する前記事実があるからといって、被告人が本件副作用情報をもとに本件株取引を行ったものではないとの決め手となるものではない。
したがって、本件株取引に関する所論はいずれも採用することができない。
3 さらに、所論は、Bの供述は、質問調書、検面調書、原審証言とみていくと、その変遷は甚だしいところ、Bは、自己の供述の変遷理由について、原判決が述べるような納得のいく説明などしていない、また、原判決は、Bの証言態度に関し、同人が被告人に不利な証言をして利益を得るという立場にないことや被告人から世話になり懇意な間柄であったことを指摘しているが、同証人の心理の表層のみを捉えた皮相な観察である、などと指摘し、原判決がBの原審証言の信用性について判示するところは誤りである、と主張する。
確かに、Bの証言は、当審で供述経過を立証するため取り調べた同人の質問調書と見比べてみると、所論が指摘するように、質問調書には出てこない事実が述べられていたり、証言時の方が具体的でより明確な供述になっていたりすることが認められる。また、関係証拠によると、Bは、証券取引等監視委員会の調査当初においては、本件当日に甲皮膚科を訪問したことすら記憶していなかったことなどが認められる。こうした点を考えると、Bの供述の信用性の判断について慎重な態度が求められることは、所論が強調するとおりである。しかし、当初は記憶が薄れていても、種々の資料や関係者の話などをもとに次第に記憶が喚起されていくことはよくあることであり、本件でも、Bにおいては、調査や捜査が進むにつれ、更に原審で証言するまでに、自ずと記憶を喚起するに足る資料や関係者の話などの材料が増えていったことがうかがわれるのであって、供述の変遷についてそのような事情を述べるBの説明が不合理であるとはいえない。そして、B自身が被告人をことさら罪に陥れようとする立場(あるいは被告人に不利な証言をして利益を得るという立場)にないことは明らかであり、本件副作用情報を伝えたという核心部分に関する限り、そこに虚偽が混ざっているとは認め難く、原判決がBの証言態度に関し述べるところも、基本的には首肯することができるというべきである。
したがって、所論は採用することができない。
4 以上によれば、Bの証言は、本件副作用情報を伝えたという核心部分に関する限り、基本的に信用することができ、逆に、これに反する被告人の供述はにわかに措信し難いというべきであり、被告人がB訪問の際に同人から本件副作用情報を得たことは優に認められるというべきである。
三 B証言の信用性に関するその余の所論について
所論は、(1)Bの証言中、本件当日午前一一時ころ、被告人に対し、あらかじめ本件副作用情報を電話で知らせ、ファックスで至急文書の写しを送ったとする点は、被告人がその後患者に対し現にユースビル錠を投与している事実と明らかに矛盾するし、また、当日昼に被告人に至急文書の写しを手渡したとする点も、その直後、Bらと一時間もの間のんびりと会食をし、他の開業医への連絡も午後四時すぎころになるまでしていないなど、被告人の実際の対応、行動と著しく矛盾する、(2)Bの行動としてみても、Bは、本件副作用情報が重大なものであると証言しているが、至急文書の写しを持参して甲皮膚科に赴きながら、午前の診療が終わるのを待って被告人と面談するなど、その悠長な行動は全く矛盾している、(3)Bは、被告人がBから至急文書の写しを受け取った後、丙商会に電話してユースビル錠の注文取消等の指示をしたと証言するが、これに沿うかのようなCの証言は、乙薬品の管理薬剤師のFからの伝聞によるものであり、かつ、Cの各質問調書とも矛盾するものであって信用できないこと、注文取消等の指示を受けたとするEの供述とも一致しないことなどに照らすと、Bの右証言は信用できない、(4)Bは、被告人に本件副作用情報を伝える動機として、日本商事のAとの電話のやり取りを挙げて証言しているが、質問調書ではそのような事実について供述していない上、AはBとの電話の事実を覚えていない旨証言しており、また、Bが述べるAとの電話の内容は、Aの当日の行動等と明らかに矛盾するものであり、この点に関するBの証言も信用できない、と主張する。
まず、(1)についてみるに、その前半部分は、おおむね原判決が説示するとおりである。これに付け加えると、本件副作用情報はフルオロウラシル系薬剤との併用に関するものであるところ、患者にユースビル錠を投与するに際しては、カルテを見て、同錠の投与歴を確認し、現在その副作用と思われる症状が出ているか否か、フルオロウラシル系薬剤との併用の心配がないか否かを確認して行うことができるのであるから、それで問題がないと判断して同錠を患者に投与したからいって、本件副作用情報を知ったことと何ら矛盾するものではない(そのような患者であっても副作用情報を知りながら新たに投与するなどということは、医者としてあり得ないことである、と所論は指摘するようであるが、現に、被告人の供述によっても、Dからの連絡で本件副作用情報を知ってユースビル錠を投与した午前中の患者のカルテを見たが、投与歴や症状の有無から大丈夫と思い、それ以上当該患者への聞き合わせや服用停止の指示等は一切しなかった、というのであり、被告人のこのような対応をみれば、一般論はともかく、本件では右の指摘は当たらないというべきである。)。また、被告人は、本件副作用情報を知ったならば、直ちに、診療を中断してでも、ユースビル錠を投与した患者のカルテを調べて併用の有無を確認し、更に他の開業医などに対し連絡するなどする、と所論に沿う供述をするところ、確かに、被告人は、Bらと「磯膳」にて約一時間会食をしており、また、関係証拠によると、開業医への連絡も当日午後四時すぎから五時ころまでの間に行っていることが認められる。しかし、このような事実があるからといって、これが直ちに、被告人が本件副作用情報を入手したことと矛盾した行動であり、ひいては、B証言の信用性を否定する事由となるものではない。次に、(2)についてみるに、確かに、関係証拠によれば、所論指摘の事実は認められるが、Bは、被告人と懇意な間柄であることから、本来のルートでの伝達に先んじて、好意から、被告人に本件副作用情報を伝えているのであって、右の事実があるからといって、直ちにこれが、Bにとって矛盾した行動であり、ひいては、B証言の信用性を否定する事由となるものではない。さらに、(3)についてみるに、Cのこの点に関する証言は、当審で供述経過を立証するため取り調べた同人の質問調書と見比べてみると、丙商会からのユースビル錠の注文取消しの事実について、質問調書では覚えていない旨の供述をしているのに、証言では、はっきりその事実について、Fから昼の一時半頃その旨聞いたと供述しており、そこには矛盾があるかのようである。しかし、Cは、質問調書の時から原審証言に至るまでに、Fから事実確認をし、自分なりに考えるなどして記憶をたどった結果であると説明しており、Bについて述べたのと同様、右説明もまた首肯することができる。Cの証言がBの証言と逐一符合しているわけでないことは、所論が別途指摘するところからも明らかであり、CがBの証言に迎合して証言したなどという疑いはないというべきである。また、Eは、昼食から帰った後、被告人から、電話で本件副作用情報を聞くとともに、午前中にしたユースビル錠の注文を取り消すよう指示され、すぐ乙薬品に電話して右注文を取り消した、と証言しているが、必ずしもE自身の記憶に基づくものか疑わしく、被告人とEとの関係を考えると、同人の証言をそのまま信用することはできないというべきである。最後に、(4)についてみるに、Bの所論指摘の証言については、所論が指摘するような点がうかがわれるが、同人が質問調書で述べていないことからもいえるように、同人にAとの電話自体はっきりとした記憶が残っていたものではなく、後に資料等から記憶を呼び起こした結果であり、電話の内容まで正確性が保たれているとは思われないし、すべてにわたり矛盾なく証言しているとは必ずしもいえないのであって、指摘の矛盾点があるといって、直ちに、Aとの電話のあったことまでBの証言は信用できないとみるのは相当でない。
したがって、所論はいずれも採用することができない。
その他所論がるる指摘するところを逐一検討してみても、B証言の信用性に関する前記判断を左右するものはない。
以上の次第であるから、事実誤認をいう論旨は理由がない。
第三 控訴趣意のうち、法令の解釈適用の誤りの主張について
所論は、要するに、(1)原判決は、本件副作用情報が証券取引法一六六条二項二号イの重要事実に該当するか否かを判断するにつき、損害額が軽微基準を超えているか否かは証拠上はっきりしないとして、同号の該当性を認めず、次いで、同項四号の該当性を判断し、本件情報の重要性を指摘して同号の該当性を肯定しているが、四号の重要事実は、「前三号に掲げる事実を除き」とあることからも当然のように、一ないし三号で列挙された重要事実を含まないのであって、原判決のように二号が問題になる事実について更に四号でも問題にするというような拡大解釈は、インサイダー規制の立法の経緯からして問題であり、罪刑法定主義に反するものである、(2)原判決は、乙薬品が日本商事と契約を締結している者であって、乙薬品が本件重要事実を当該契約の履行に関し知ったものであるとして、同条一項四号を適用しているが、本件副作用情報の伝達は、乙薬品・日本商事間の契約の履行に関して行われたものではなく、日本商事が薬事法の規定に基づいて広く情報伝達を行っていた一環であり、右条項の適用は誤りである、したがって、原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の解釈・適用の誤りがある、というのである。
そこで、検討するに、原判決には、証券取引法一六六条二項二号イ及び四号の解釈・適用の誤りがあり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかであるので、破棄を免れない。以下、その理由を説明する。
一 本件公訴事実によると、検察官は、「新薬ユースビル錠について、発売直後、これを投与された患者につき、フルオロウラシル系薬剤との併用に起因した相互作用に基づく副作用と見られる死亡例が発生した」との事実を日本商事の業務等に関する重要事実としてとらえ、これが証券取引法一六六条二項四号にいう「当該上場会社等の運営、業務又は財産に関する重要な事実であって投資者の投資判断に著しい影響を及ぼすもの」に当たるとして起訴しているところ、原判決は、「本件副作用情報に関するユースビル錠による前記副作用例の発生に伴い日本商事に生ずると予想される損害について考えてみると、この損害としては、この副作用例の発生が日本商事の責に帰するものと認められる場合における当該被害者らに対する損害賠償金のほかに、本件副作用情報の公表後における出荷・販売済みユースビル錠の返品や同社が目標としていた同錠の売上高の低下による逸失利益(右副作用例の発生はフルオロウラシル系薬剤との併用によるものであることなどに照らすと、ユースビル錠の右売上高の低下率は自ずと限界があるものとみられる。)等を挙げることができる。そして、これらの損害は証券取引法一六六条二項二号イにいう『災害又は業務に起因する損害』に当たると解されるとしても、これが同条項所定の重要事実といえるためには、大蔵省令(会社関係者等の特定有価証券等の取引規制に関する省令二条一号)にいう『損害の額が最近事業年度の末日における総資産の帳簿価額の百分の一に相当する額未満であると見込まれること』との、いわゆる『軽微基準』を上回ることが必要であるところ、日本商事に生ずると予想される前示損害の見込み額は、同社にとっては少なからず痛手になる額と推測されるものの、証拠関係を検討してみてもその具体的な額を算定し得ない上、日本商事の最近事業年度の末日における総資産の帳簿価額に関する的確な証拠もない本件においては、右損害がこの『軽微基準』を上回るものとにわかに断定することができないから、本件について、証券取引法一六六条二項二号イに該当の重要事実は認められない。なお、同条項の右二号イを除くその余の各号に該当の重要事実も認められない。……そこで、……四号に……当たるかどうかにつき、以下検討する。」とし、「同項一号ないし三号と右四号の配列の仕方や同条項の立法趣旨に照らし、同項一号ないし三号(前記大蔵省令に定める『軽微基準』を含む。)に準ずる程度のものと解するのが相当である。」とした上、「これを、本件について……日本商事の規模・営業状況・自社品事業部門の商品に占めるユースビル錠の比重・同錠の開発に投下した資金量・同錠に対する有力商品としての期待・同社株の人気の要因・同錠の売上げ目標の大きさ等を踏まえて検討すると、<1>……ユースビル錠の今後の販売の見込みを著しく損ない期待した売上(収益)を得られない事態を招くのみか、今後とも更に判明するかもしれない副作用例の内容によっては同社の信用を一段と害してより多くの損害を被るものと予想されるのは明らかであり、しかも、<2>……ユースビル錠は……日本商事株の人気の主要な部分を支えていただけに、本件副作用情報は、これが公表されると同社の株取引についてはユースビル錠の今後の販売見込み等の将来性に関わる大きな不安材料となり、その株価を著しく引き下げる原因となるのは当然で、かつ、これは同社の株取引を行う被告人を含む一般投資家にも見易い道理であったというべく、……以上を考え併せると、本件副作用情報は、証券取引法一六六条二項一号ないし三号に準ずる程度のものとして、同項四号にいう『当該上場会社等の運営、業務又は財産に関する重要な事実であって投資者の投資判断に著しい影響を及ぼすもの』に当たると認めるのが相当である。」としている。
二 右判示は、要するに、本件副作用情報の重要事実性を判断するに当たり、証券取引法一六六条二項二号イをまず問題にし、同号イの「災害又は業務に起因する損害」に該当するとしても、証拠上その損害が所定の軽微基準を上回るとは断定できないとの理由で、同号イの該当性を否定し、右イを除く一ないし三号の該当性も否定した上で、四号の該当性について更に検討している。
ところで、証券取引法のインサイダー取引規制は、その立法経過等に照らすと、取引者が取引を行う時点において、その取引が処罰の対象となるか否か、規制すべき取引の範囲を明確にするとの観点から、構成要件をできる限り客観的かつ明確に規定する立法形式を採用したとされている。そこで、いわゆる重要事実について規定した同法一六六条二項は、一号から三号までにおいて、典型的なものを具体的に列挙し、しかも、一、二号においては軽微基準を、三号においては重要基準をかからしめ、これらを省令で形式的に数値化して処罰対象行為の基準を明らかにしており、その上で、四号において、一ないし三号とは異なり、「会社等の運営、業務又は財産に関する重要な事実であって投資者の投資判断に著しい影響を及ぼすもの」という一般的・包括的な事項を規定している。この四号の規定の趣旨は、今後の経済、証券市場の発展、変化に対応してすべての事項をあらかじめ列記することはきわめて困難であることから、将来、インサイダー取引規制に抜け穴が生じないようにするために、一ないし三号に加えて規定されたものである。したがって、四号は、インサイダー取引規制の構成要件をできる限り客観的かつ明確に規定するとの大きな枠組みの中で、あくまで補充的・補助的規定として設けられたものとみるべきであり、他方、一ないし三号は、それぞれ独立した構成要件であって、四号に内包される単なるガイドライン的な規定でないことは法文上明らかというべきである。このような立法趣旨に照らしてみても、また、四号の冒頭にある「前三号に掲げる事実を除き」との文言からしても、四号は、一ないし三号までに掲げられた重要事実以外の事実についての規定であり、一ないし三号に相応する事実ではあるが、同時に又は選択的に、投資判断に著しい影響を及ぼすものとして四号に該当するというようなことはないと解するほかない。
そして、本件副作用情報は、まず個別条項である二号イにいう「災害又は業務に起因する損害」に該当する余地があり、その損害が所定の軽微基準を上回るか否かの判断は、被告人の本件取引行為が処罰の対象となるか否かに係るものである。そうだとすると、原判決が、検察官が主張する四号の該当性の判断に先立ち、二号イをはじめ一ないし三号の該当性について検討しているところは是認できるが、二号イの該当性を検討しながら、同号イの該当性を否定した上で、四号の該当性を更に検討するといった判断手法は、前示の一ないし三号と四号との関係からして、誤りであるといわざるを得ない。しかも、損害が軽微基準を上回るかどうか証拠上断定できないのであれば、この点の審理を尽くさせるべきであり、それをすることなく前示のような理由で安易に同号イの該当性を否定すること自体も、刑事裁判における立証責任の観点からして問題であるといわなければならない。記録によると、原審において二号イの該当性が問題になったのは、弁護人が弁論でこの点の主張をしてからであり、本来なら、原裁判所は、この段階で、あるいは、いったん終結したのであれば再開し、検察官から右主張に対する反論をさせるなどして、双方の主張がかみ合う形で審理を尽くすべきであったというほかない。
三 検察官は、一ないし三号と四号との関係について、原審における前示の審理経緯があったからか、原審では何も主張していなかったが、当審の答弁書において、四号に規定する重要事実は、一ないし三号が経済的、量的な観点から形式的要件をもって重要事実を列挙している関係上、それとは異質の、およそ経済的、量的観点だけでは評価し切れない事項(企業の信用、イメージ評価等)であって、実質的に投資者の投資判断に著しい影響を及ぼすものであると解される、と新たな主張をする。
そこで、これについてみるに、このような考え方は、四号について一ないし三号とは別個の独自な意味合いを持たせるものであり、前述の立法者の意思と明らかに矛盾するものであるといわざるを得ない。なるほど、一ないし三号の規定は、構成要件をできる限り客観化、明確化するとの要請を受けての規定であるが、余りにも具体的であり、かつ、軽微基準ないし重要基準といった数値での線引きを設けているため、規定が複雑であり、インサイダー取引規制の処罰目的を達成することが困難となることも予想でき、これを解消し、処罰目的をより効果的かつ柔軟に達成するためには、四号の包括的規定を活用すべく、同号の存在意義を見直し、二項全体を柔軟に解釈するという処罰対応の解釈も考えられ得る。しかし、仮に、立法形式に問題があるとしても、もともと規制すべき取引の範囲を明確かつ客観的に規定するために採用された立法形式であり、このような不具合が生じることは立法当初から明らかであったことである。証券取引法を取り巻く社会事象の変化を考慮に入れても、法改正をしないで解釈でもって右不具合の解決を試みようとするのは、立法趣旨をないがしろにするものであって、刑罰法規の解釈の限界を超え、ひいては罪刑法定主義にも反するものというほかない(いわゆる通い売春の形態について売春防止法一二上(管理売春)の適用を認めた最高裁第三小法廷昭和四二年九月一九日決定や、写真コピーについて文書偽造罪の文書性を認めた最高裁第二小法廷昭和五一年四月三〇日判決等は、いずれも立法当時予想されなかった事象に対応するために、合理的解釈を施したものであり、本件の場合にこれらと同列に解することはできないというべきである。)。実質的にみても、一ないし三号に規定する事実は、いずれも経済的、量的観点だけでは評価し切れない企業の信用、イメージ評価等の事項をも含むことは、通常のことであると考えられるのであって、このような事項について再度四号の該当性が問題になるというのでは、一ないし三号を処罰対象の構成要件として定めた意味がなくなり、四号の単なるガイドラインとして、実質的に空文化するものといわざるを得ない。インサイダー取引規制の処罰目的を達成するために、柔軟でかつ合理的な解釈が許されるとしても、それは、規制の枠組みの中で、まず、一ないし三号の個別的規定について、その客観的・主観的要件の解釈・運用の面で試みるのが筋であり、いきなり包括的規定である四号で処罰を試みるというのは、余りにも処罰の便宜に走り、かつ、立法構成を無視した解釈であって、到底賛同できない。
したがって、検察官の主張は採用することができない。
四 以上によれば、原判決には、証券取引法一六六条二項二号イ及び四号の解釈・適用の誤りがあり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかである。
論旨はこの点で理由がある。
第四 結論
よって、その余の所論について判断するまでもなく、刑訴法三九七条一項、三八〇条により原判決を破棄し、なお、当審において自判するのが相当であるかについて考えるに、本件副作用情報の重要事実性については、前示したように、証券取引法一六六条二項二号イに該当する余地があり、これを検討、判断するべきであるところ、二号イの該当性については、原審では弁護人から最終弁論での主張があるのみで、全く審理されていない状況にかんがみると、審級の利益の観点からして、今後審理の上で予測される二号イの該当性に関する客観的・主観的要件の立証について、原審で攻防を尽くさせるのが相当であり、この点について、当審において予備的にでも訴因の変更を促し、全く新たに審理するのは、訴訟経済の点を考慮に入れても相当ではない。したがって、当審で自判することは避け、原審において、予備的にでも訴因の変更を促して二号イの該当性について審理を尽くさせるため、刑訴法四〇〇条本文により、本件を原裁判所である大阪地方裁判所に差し戻すこととし、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 田崎文夫 裁判官 久米喜三郎 裁判官 毛利晴光)